安藤杳子の本の話。

お部屋の中からこんにちは。

行動する鷹と、行動しない蜜|『万延元年のフットボール』大江健三郎

緊急事態宣言下のいまは、「自粛」を「要請」され「行動しないこと」が要求される。「行動しない」というのは、実は痛みをともなうということが、この1年間のうちによくわかった。昨年の初めての緊急事態宣言から言われている「自粛疲れ」がそうだ。そして、現代は「諦め」が蔓延しているように思う。新型コロナウィルスの感染の拡がりも、東京オリンピックも、全てがため息のなかでなびきながら日本中を覆っている。「行動できない」ことが、「行動しない」ことに移動している。

大江健三郎の『万延元年のフットボール』では、自己を罰するように行動し、他者を巻き込んで大きなうねりを生み出していく鷹四と、何にも干渉しないで自分の殻にこもろうとする行動しない蜜三郎という二人の兄弟が対照的に描かれている。

舞台は、四国の森の中の村。「鷹」は村で100年前に起こった万延元年の一揆をなぞるように、村の青年団を率いて「スーパーマーケット」を襲撃する。「蜜」は、かつて自分が育った村のことには関わらないことを誓い、じっと家の倉屋敷に引きこもり、赤色の塗料で頭と顔をぬりつぶし、素裸で肛門に胡瓜をさしこみ縊死した友人の遺した翻訳の仕事を続けようとする。

「蜜」には養護施設に預けた子どもがいる。妻の奈採子はアルコール中毒になり、ウイスキーを手放せなくなっている。しかし「蜜」は積極的にはそのようなことにも積極的な姿勢を見せない。「鷹」のことも、縊死した友人のことも、自分のことも「鑑照」することで常に客観的な姿勢を崩さず、そのことで安全な居場所にいようとする。物語のさいご、どのようにして「蜜」が安寧の場所を見つけようとしたのか。読んでそれを確かめてほしい。

 

 

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)
 

 

ある晴れた日の断章(『ポートレート・イン・ジャズ』『万延元年のフットボール』『ダンス・ダンス・ダンス』)

万延元年のフットボール。一年以上かけて読んでいる。再読だ。いつになったら読み終わる?大江健三郎のねちっこいほどの文章。生きた茎を切ったときの粘液のようだ。それがまた癖になるんだけれども。

     

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最近は村上春樹の『ポートレート・イン・ジャズ』を丹念に読んでいる。つまり、紹介されているジャズのアルバムを片っ端から聴いている。セロニアス・モンク、ビル・エヴァンズ、ビリーホリデイ、ルイ・アームストロング・・・。ジャズなんか知らない。人は30歳になると新しい音楽を聴かなくなると記事で読んだ。自分はそんなの嫌だ。死ぬまで新しい音楽を汲み取り続けたいんだ。

 

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サブスクで気軽に映画を観れる。けど逆に映画を観なくなった。TSUTAYAやGEOに毎週DVDを借りに行っている時代の方が映画を観ていた。いつでも観れる映画は、いつまでたっても観ない。

 

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村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読み終わった。高校時代は本当に好きで、特に下巻は何度も読み返していた。大学に入ると、ブラインドタッチのできなかった自分はこの小説を打って練習していた(成果はもちろんなかった)。ほとんど10年ぶりに読み返してみて、なぜあれほど熱中できたのか、思い出せない。ヒロインであるユキという女の子は魅力的に感じていた。線の細い、ミステリアスな感じ。それだけは覚えている。あの行き場のなさ、鬱屈感にシンパシーを感じていたんだろうか。主人公は34歳のおじさんだったが。

小指と木曜日

左手の小指を

 

塩漬けにした

 

レモンが決め手よ。

 

日曜日の午後

 

風と日光と気だるさの中、

 

わたしはそれを

 

料理した

 

白い台所で

 

 

冷蔵庫にしまわれた

 

それは

 

あの息苦しい木曜日には

 

見事な出来ばえとなって

 

わたしに素敵な時間を

 

ふるまってくれるだろう

飛んでる鳥の影はどこ?

暑くなって来ましたね。

普通のことを書きたくなって書いています。

 

今日は用事で、姫路へ行っていました。

 

本屋へ寄って、『吉行淳之介ベストエッセイ』を持って、カフェへ。

ピオレの3階?のカフェでぼんやり駅前の通りを見ていました。

 

普段着の人、仕事中のシャツの男性、学生、老人、公園で遊ぶ子どもたち、観光に来た外国人旅行者。若い女性が、暑い中ひとりでずっとライブの準備をしている。少し西日の、人型の影が落ちている。

 

その人たちと、自分との間を鳥が飛んでいる。

 

不思議なもので、鳥の動作に全く気にしない、気づいてもいなさそうな通りの人たちと、鳥の様子を見ていると、よくできたジオラマを覗いているようでした。いわゆる神視点ていうやつです。

 

鳥は、自由の象徴に例えられるけど、ヒトが今通りを歩いているみたいに、地面をはうように歩くことしかできないのに対して、立体的に、あんなに颯爽と移動できるのは確かに生物として次元が違うな、なんてことも、考えてました。

 

しかし、ふと、疑問が。鳥の影はどこにあるんだろうと。

 

人の影はあんなにはっきりしているから、同じように飛んでいる鳥の影も、通りや公園や、ビルの壁なんかに落ちているはずだ。誰にも発見されずに。鳥と同じような軽やかさで移動しているはずだ。しかし、それを発見するのは、1羽分だって困難だろう。

 

けれど、もう一度よく考えてみると、高い位置にいる鳥は、ひょっとしたら、というか確実に地面なんかに影を落としていないだろう。明かりに近づけた自分の手の影が、広がって薄くなりなくなっていくように。影は、地面を踏んで飛び立った瞬間に、同じように地面を離れてしまうのだろう。

 

日差しの強い、アルファルトからの反射した熱すら避けられずに、自らの影とずっと付き合っていかなくてはいけないヒトとはやっぱり、住む次元が違うのだ、そんなことを、思いました。

 

 

 

 

 

 

『CARVER'S DOSEN レイモンド・カーヴァー傑作選』村上春樹訳

 レイモンド・カーヴァーの小説は、高校生の時に熱中していた。ちょうど、3年生の部活の引退間際の頃で、最後の大会(陸上部だった)に出場するため宿泊していたホテルで読んだ思い出がある。

 一言で言うと、そんな重要な日の前夜に熱中して読むような教訓は書かれていない。そこには人が生きていく上でたまに味わう人生の不可解な味わい(良いも悪いもある)があるだけだ。

 高校生の頃に読んでいたのは、『村上春樹翻訳ライブラリー』というシリーズだった。詩とエッセイもあるが、長編はない。それを多分ほとんど読んだ。今回読み終わった本は、それの傑作選だ。あわせて12篇の短編とエッセイ、そして詩がおさめられている。もう9年も経っていたが、印象に残っているものばかりだった。

 高校時代のイメージは、夜寝たときに見る夢みたいだな、と思っていた。カーヴァーの短編はあるワンシーンを切り取ったもので、村上春樹の言うようなカフカ的な不条理が展開されるからだ。

 しかし、それだけではなかった。カーヴァーの小説は、人が人生を生きて行く上でいつか忘れてしまうような、忘れなくても、何かにわざわざ記録しないような出来事が書かれている。

 ちょっとした会話やシーン。けれども、それが人生の何かを暗示していると感じされるのだ。

価値ってなんだろう 『反哲学入門』 木田元

 

大学以来の再読でした。

 

最近ふつふつと哲学熱が再燃しています。

 

自分の整理のためにも少しだけあらすじを。

 

プラトン/アリストテレス以来、西洋は「超自然的思考」になり、それが「哲学」であると作者は語ります。

 

プラトンが、「イデア界」という、この世界とは別の世界を思い描き、この世界はイデア界からの概念によって「作られている」と考えたところからですね。それから西洋はいろんなかたちでプラトンの思考を引き継いでいきます。

 

「反哲学」は、「超自然的思考」による西洋の行き詰まりを見たニーチェが、ソクラテス以前の「自然的思考」に立ちもどろうとしたところから始まります。

 

「超自然的思考」では、目の前にある自然を物質、材料としてしか見てなかったのですが、価値転倒をして、自然そのものを見つめ直そうよと、そういうわけです。

 

下手な解説より、本を読んだ方が早いし(ものすごくわかりやすいです)、『史上最強の哲学入門』など、もっとわかりやすい本もあるので、ここら辺にしておきます。

 

ここで「価値転倒」という言葉を使いましたが、「価値」という概念を初めて使ったのがどうやらニーチェみたいです。ニーチェは経済学から輸入してきたみたいですが。

 

今では「価値」という言葉がどこでも使われますが、その時代の思想そのものを受け入れて生きていたら、確かに必要のない概念かもしれませんね。「そのままを受け入れる」というか・・。ものごとや自分、人の「あり方」に疑いを持った時に「価値」っていうものが生まれるのかもしれない。そんなことを考えました。

 

東海道本線でみた親子の話。

本や映画の話ではないですけれど、ちょっと記憶にある情景を。

大学生のころ、青春18きっぷを握って本州一周をしたことがありました。JR東海道本線でひたすら東に向かうなか、私は近づいてくる富士山の姿を見ようとして、一番前の車両に座っていました。その同じ車両の、車掌がいる運転席のすぐ後ろに、若いママと男の子がいて、ママが男の子のことを「君」と呼んでいたんです。

「君、最近鍵の穴に凝ってるね」

と、そんな感じの会話の断片だけ覚えています。

東海道本線って、ずっと海沿いを走るし、浜名湖を通って、富士山にどんどん近づいて行くので、かなり長い時間乗っていても、結構楽しいんです。

その日は、空も晴れ渡っていて、乗客も少なくて、なんというか、乗り合わせている人たちだけの「親密な空気感」みたいなものがあった気がします。ーーもう何年も昔の記憶だし、大げさかもしれないですけど、「そんな雰囲気」をイメージしてくださいーーそのなかで、「君」と呼んでいるママと息子の、その親子の雰囲気が、別の場所だったらひょっとしたら浮いていたかもしれないその呼び方が、その場にすごくなじんでいる気が私はしました。

どんな会話を二人がしていたのか、どの駅で乗り降りしていたのか、前後のことは全く覚えていないけれども、あの列車のなかで感じたものをなんとなく残しておきたくて、ここに書いておくことにしました。