安藤杳子の本の話。

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文学がデザイン化される時代 by平野啓一郎

3年近く前のことですが、小説家の平野啓一郎さんが、テレビで「文学もデザイン化される時代」と言っていました。当時僕は「デザイン化される」ということが一体どういうことなのか、いまいちわかりませんでした。それでも、この言葉はなんとなく覚えていて、ふと思い出したので、今自分の考えてみたことをまとめてみたいと思います。

 

「デザイン化される」ということがどういうことなのか、これは平野啓一郎さん自身が実行していることなので、彼の作品をいくつか読んでみればわかることだと思います。

彼の芥川賞受賞作品『日蝕』は擬古文で書かれていて、三島由紀夫の再来だと言われていました。しかし、最近の作品『空白を満たしなさい』などは、平易でわかりやすい文章で書かれている。しかも、テーマ性もはっきりしている。彼自身が考えた「分人主義」というものです。テーマについては話がそれるのでここまでにしておきますが、『「分人主義」とは何か』(講談社現代新書)という本も出しています。

「文学がデザイン化される」というのは、つまり、「芸術」としての文学をやめ、読者に対して、できる限りわかりやすく問いかけをするということだと思います。芸術性をもった文章や、難解でつかみにくいテーマをするのではなく、読者にあわせた文章を使い、わかりやすいテーマ(平野さんの場合は「分人主義」)を設定する、ということです。

情報がどこを向いても入って来る時代には、どうしてもわかりやすさというものが必要な時代になって来るんでしょうね。

ちなみにですが筆者は癖のある文章が大好きです。中上健次大江健三郎三島由紀夫などなど・・・、村上春樹も大好きですね。癖のある文章は読みごたえがあるので・・・。

平野啓一郎さんはずっと読み継がれていく小説家になるだろうなーと、勝手に上から目線で思っています。そんなことは何十年も経ってみないとわからないことですが、昔から読み継がれる本ていうのは、いつの時代にも通じる普遍性や人々の共感性があってこそのものだとも思います。

考えてみればダンテの「神曲」も、ラテン語じゃなくて俗語のイタリア語で書かれたことが革新的だったんだし、源氏物語がひらがなで書かれたり、明治になって言文一致体で小説が書かれるようになったり、「デザイン化」は今に始まったことじゃないかも。