安藤杳子の本の話。

お部屋の中からこんにちは。

昨日は/あしたのおとといで おとといのあしたや 村上春樹『女のいない男たち』 

 

3回目の投稿です。

 

村上春樹の『女のいない男たち』を読みました。

 

村上春樹の小説は僕が高校生の頃から好きで、気に入った作品を何度も手にとっては繰り返し読んで一字一字を味わっていました。うまく言えないですが、一つひとつの文章をひろうという作業がとても面白く感じる。春樹の小説全般に言えることですが、文章を追う作業そのものが心地いいんです。普通はストーリーを追うために文章を追いますが、村上春樹は読む行為自体が主役になるので、物語を追うことは二の次になっている・・・気がする。(僕だけでしょうか?)そんなこんなで奇妙なあらすじの物語にも違和感なくひたっている、そんな感じがします。

 

『女のいない男たち』の短編はどれも色が違って別々の面白さがあります。いろんな角度から『女のいない男たち』という、タイトル通りのモチーフを書いているので、経験や年齢によって、どの作品が好きか、というのは変わってくると思います。

 

私としては、そんな短編の中では、『イエスタデイ』という作品を特に気に入りました。

 

『イエスタデイ』は、東京生まれに関わらず、「後天的に」関西弁を覚えた変わった男、木樽を中心に物語が語られます。木樽の友人である主人公は、ある日木樽の彼女と付き合ってくれないかと頼まれ、1度だけのデートに出かけます・・・。

 

作品は三十六歳になった主人公が、二十歳の頃を思い出す形で語られます。そしてラストは、現在の木樽に対する思いを告白して幕を閉じます。

 

昔のことを回顧しながら語る、というのは『ノルウェイの森』や『風の歌を聴け』など、春樹の作品ではよくある設定です。この作品においてもそうでした。私が気に入ったのは、消えていく過去の思い出が、ある日思いがけないかたちで蘇る、その瞬間をとらえた切なさを感じたからです。

 

思い出は、時間とともに忘れていって、印象的なことだけが結晶化され美化されていくものかなと思います。

 

昨日は/あしたのおとといで 

おとといのあしたや

 

主人公は木樽が作った関西弁の奇妙な歌詞を、『イエスタデイ』を聴いてふと思い出したりします。しかし、思い出せるのは徐々に断片になっていき、「今では木樽が正確に歌ったものであったかどうか、今となっては定かではない」。

 

主人公が二十歳の頃を振り返って思い出すのは、自分の圧倒的な孤独感のことです。ラストで主人公が木樽の幸福を願うのは、自分自身の美化された過去も、一緒に幸福になるように願っているんじゃないかと思いました。孤独に包まれた過去であっても、それはみじめなものではなく、青春のひとつのあり方として主人公の中に残っているんじゃないかと思います。

 

ふと過去が現在に蘇った時、それは結晶のまま美しさをもっているか、あるいは陳腐なものとして眼に映るか、どちらにおいても切なさを抱いてる気がします。

 

 

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)