安藤杳子の本の話。

お部屋の中からこんにちは。

「ラビング 愛という名前のふたり」〜「古代ギリシア展」 

今日はシネリーブルで「ラビング 愛という名前のふたり」を鑑賞。
 
この映画は、アメリカで初めて異人種間の結婚が裁判で認められるまでの実話を元にしたものでした。理不尽だと憤りながらも、なぜ違法なのか?と権利を強く主張するためではなく、あくまで「故郷で暮らすため」に裁判を起こす感じが生々しかった。ミルドレッド・ラビングを演じたルース・ネッガの表情が繊細で食い入るようにみてました。
 
そしてようやく県立博物館のギリシア展も観に行きました。
エジプト壁画の影響を受けた絵画から、写実的な彫刻、オリエントに影響を受けた後の官能的なもの(ちょっとだけでしたが)まで変化をみてとれて面白かった。
 
個人的に気に入ったのは、ミノス文明のフレスコ画とか。タコの絵とか可愛かったですよ〜。自然に対しての感覚が豊かだなあとか思いました。
 
彫刻も面白かった。古代オリンピックって、「鍛え抜かれた肉体美」に重きが置かれてて、そこに宿る精神性みたいなものがよかったんですね。今のスポーツ観戦だと、そこに至るまでのドラマ性だとかが「美しい」とされてる気がします。
 
あと、左右対称の均一性からくる美しさから、躍動感のある動きに重きが置かれていって、最終的には、腰をくねっとさせたり、不均衡な美というか、そんなところに行き着くのが、過程が見えた気がしました。奈良の日光月光日輪像(でしたっけ?)も、腰くねっとさせてましたよね。日本もギリシャもインドとかいう、いっちゃえばクラスの「悪友」(いい意味での)に影響受けちゃってるんだな、と実感できました。

詩と科学

中谷宇吉郎の『科学以前の心』を読みました。中谷宇吉郎さんは世界で初めて人工雪をつくった科学者です。エッセイも有名で、彼のことは高野文子の『ドミトリーともきんす』で知りました。

 

自然科学の本は、たまに読むとすごく面白いです。難しい理論は抜きにして、なるほどそうだったのか、ということとか、未知を知るワクワクが童心に戻してくれます。

 

 

 

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昨日は/あしたのおとといで おとといのあしたや 村上春樹『女のいない男たち』 

 

3回目の投稿です。

 

村上春樹の『女のいない男たち』を読みました。

 

村上春樹の小説は僕が高校生の頃から好きで、気に入った作品を何度も手にとっては繰り返し読んで一字一字を味わっていました。うまく言えないですが、一つひとつの文章をひろうという作業がとても面白く感じる。春樹の小説全般に言えることですが、文章を追う作業そのものが心地いいんです。普通はストーリーを追うために文章を追いますが、村上春樹は読む行為自体が主役になるので、物語を追うことは二の次になっている・・・気がする。(僕だけでしょうか?)そんなこんなで奇妙なあらすじの物語にも違和感なくひたっている、そんな感じがします。

 

『女のいない男たち』の短編はどれも色が違って別々の面白さがあります。いろんな角度から『女のいない男たち』という、タイトル通りのモチーフを書いているので、経験や年齢によって、どの作品が好きか、というのは変わってくると思います。

 

私としては、そんな短編の中では、『イエスタデイ』という作品を特に気に入りました。

 

『イエスタデイ』は、東京生まれに関わらず、「後天的に」関西弁を覚えた変わった男、木樽を中心に物語が語られます。木樽の友人である主人公は、ある日木樽の彼女と付き合ってくれないかと頼まれ、1度だけのデートに出かけます・・・。

 

作品は三十六歳になった主人公が、二十歳の頃を思い出す形で語られます。そしてラストは、現在の木樽に対する思いを告白して幕を閉じます。

 

昔のことを回顧しながら語る、というのは『ノルウェイの森』や『風の歌を聴け』など、春樹の作品ではよくある設定です。この作品においてもそうでした。私が気に入ったのは、消えていく過去の思い出が、ある日思いがけないかたちで蘇る、その瞬間をとらえた切なさを感じたからです。

 

思い出は、時間とともに忘れていって、印象的なことだけが結晶化され美化されていくものかなと思います。

 

昨日は/あしたのおとといで 

おとといのあしたや

 

主人公は木樽が作った関西弁の奇妙な歌詞を、『イエスタデイ』を聴いてふと思い出したりします。しかし、思い出せるのは徐々に断片になっていき、「今では木樽が正確に歌ったものであったかどうか、今となっては定かではない」。

 

主人公が二十歳の頃を振り返って思い出すのは、自分の圧倒的な孤独感のことです。ラストで主人公が木樽の幸福を願うのは、自分自身の美化された過去も、一緒に幸福になるように願っているんじゃないかと思いました。孤独に包まれた過去であっても、それはみじめなものではなく、青春のひとつのあり方として主人公の中に残っているんじゃないかと思います。

 

ふと過去が現在に蘇った時、それは結晶のまま美しさをもっているか、あるいは陳腐なものとして眼に映るか、どちらにおいても切なさを抱いてる気がします。

 

 

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

女のいない男たち (文春文庫 む 5-14)

 

 

 

 

文学がデザイン化される時代 by平野啓一郎

3年近く前のことですが、小説家の平野啓一郎さんが、テレビで「文学もデザイン化される時代」と言っていました。当時僕は「デザイン化される」ということが一体どういうことなのか、いまいちわかりませんでした。それでも、この言葉はなんとなく覚えていて、ふと思い出したので、今自分の考えてみたことをまとめてみたいと思います。

 

「デザイン化される」ということがどういうことなのか、これは平野啓一郎さん自身が実行していることなので、彼の作品をいくつか読んでみればわかることだと思います。

彼の芥川賞受賞作品『日蝕』は擬古文で書かれていて、三島由紀夫の再来だと言われていました。しかし、最近の作品『空白を満たしなさい』などは、平易でわかりやすい文章で書かれている。しかも、テーマ性もはっきりしている。彼自身が考えた「分人主義」というものです。テーマについては話がそれるのでここまでにしておきますが、『「分人主義」とは何か』(講談社現代新書)という本も出しています。

「文学がデザイン化される」というのは、つまり、「芸術」としての文学をやめ、読者に対して、できる限りわかりやすく問いかけをするということだと思います。芸術性をもった文章や、難解でつかみにくいテーマをするのではなく、読者にあわせた文章を使い、わかりやすいテーマ(平野さんの場合は「分人主義」)を設定する、ということです。

情報がどこを向いても入って来る時代には、どうしてもわかりやすさというものが必要な時代になって来るんでしょうね。

ちなみにですが筆者は癖のある文章が大好きです。中上健次大江健三郎三島由紀夫などなど・・・、村上春樹も大好きですね。癖のある文章は読みごたえがあるので・・・。

平野啓一郎さんはずっと読み継がれていく小説家になるだろうなーと、勝手に上から目線で思っています。そんなことは何十年も経ってみないとわからないことですが、昔から読み継がれる本ていうのは、いつの時代にも通じる普遍性や人々の共感性があってこそのものだとも思います。

考えてみればダンテの「神曲」も、ラテン語じゃなくて俗語のイタリア語で書かれたことが革新的だったんだし、源氏物語がひらがなで書かれたり、明治になって言文一致体で小説が書かれるようになったり、「デザイン化」は今に始まったことじゃないかも。

安西水丸について

 COYOTEという雑誌で安西水丸特集をしていました。

 

安西水丸を知ったのは村上春樹のエッセイです。

『村上朝日堂』という一連のエッセイ集が大好きで、

自然と挿絵の安西水丸の絵も気に入るようになりました。

 

安西先生の絵はシンプルだけど、画面いっぱいに幸福感みたいなものが

ぎゅっとつまっている感じがする。

何の変哲もない風景が、新鮮で、平和なものとして切り取られている感じがする。

 

休日の午後に読むと、なんとなく良い感じのする特集でした。

 

COYOTE No.58 安西水丸 おもしろ美術1年生

COYOTE No.58 安西水丸 おもしろ美術1年生