安藤杳子の本の話。

お部屋の中からこんにちは。

飛んでる鳥の影はどこ?

暑くなって来ましたね。

普通のことを書きたくなって書いています。

 

今日は用事で、姫路へ行っていました。

 

本屋へ寄って、『吉行淳之介ベストエッセイ』を持って、カフェへ。

ピオレの3階?のカフェでぼんやり駅前の通りを見ていました。

 

普段着の人、仕事中のシャツの男性、学生、老人、公園で遊ぶ子どもたち、観光に来た外国人旅行者。若い女性が、暑い中ひとりでずっとライブの準備をしている。少し西日の、人型の影が落ちている。

 

その人たちと、自分との間を鳥が飛んでいる。

 

不思議なもので、鳥の動作に全く気にしない、気づいてもいなさそうな通りの人たちと、鳥の様子を見ていると、よくできたジオラマを覗いているようでした。いわゆる神視点ていうやつです。

 

鳥は、自由の象徴に例えられるけど、ヒトが今通りを歩いているみたいに、地面をはうように歩くことしかできないのに対して、立体的に、あんなに颯爽と移動できるのは確かに生物として次元が違うな、なんてことも、考えてました。

 

しかし、ふと、疑問が。鳥の影はどこにあるんだろうと。

 

人の影はあんなにはっきりしているから、同じように飛んでいる鳥の影も、通りや公園や、ビルの壁なんかに落ちているはずだ。誰にも発見されずに。鳥と同じような軽やかさで移動しているはずだ。しかし、それを発見するのは、1羽分だって困難だろう。

 

けれど、もう一度よく考えてみると、高い位置にいる鳥は、ひょっとしたら、というか確実に地面なんかに影を落としていないだろう。明かりに近づけた自分の手の影が、広がって薄くなりなくなっていくように。影は、地面を踏んで飛び立った瞬間に、同じように地面を離れてしまうのだろう。

 

日差しの強い、アルファルトからの反射した熱すら避けられずに、自らの影とずっと付き合っていかなくてはいけないヒトとはやっぱり、住む次元が違うのだ、そんなことを、思いました。